ワークスとは言え、チームはコークと監督、メカニック2人(1人はコークの実兄)のたった4人という小所帯で、
コーク自身が移動中のトランスポーターを運転する事もあったという。
こんな弱小チームなれど、何とか勝利をと努力を続けたが、人、金、資金と何もかもが不足していた上に、
カワサキはシーズン中盤でWGP撤退を表明、改良部品の開発もストップしてしまう。
全てがチグハグなまま低迷を続け、'82年は最高位が6位、最終戦もまさかのリタイヤと
有終の美を飾る事も叶わなかった。
ところで、KR500は「コーク・バリントン(画像左下)が駆ったマシン」が基本だが、
'82年ラグナセカにスーパーバイクで出走予定だったエディ・ローソン(画像右)が
レース前にトランスポーター事故でマシンが届かなかった際
GP500にKR500でスポット参戦しており、画像車がその時のマシン。
そのレースで、ローソンをしてラップタイムがケニーロバーツYZRの5秒遅れという事実が、
カワサキのWGP撤退を後押ししたとも言われている。
しかし、その斬新なメカ(創造と挑戦)は「ライムグリーンの異色マシン」として輝きを放っていたし、
タミヤの模型説明書には、「82年を最後に世界GPから撤退したカワサキだが、
KR500とコークバリントンがこのまま世界GPにチャレンジしていたら大きな成功を勝ち得たことは間違いないであろう。」
とも記されていた。
(因みに、コークはWGP500で未勝利だったが、昨年 MotoGPの殿堂入りを果たしている)
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